いじられキャラとか悪目立ちする人の人生の話
異邦人
この人なら何かものを言ったり、頼み事をしてもいいだろう、あるいは妙に目や鼻につくタイプだ、と思われる人ってのが、一定の割合でおります。私もそのうちの一人です。
ムロツヨシ、ふかわ、西村ひろゆき、youtuber、ニコ生主とか、なんか「呼び捨てにしても良さそうな人」を想像していただければわかりますでしょうか。(ムロさんは「さん」ですけど)
今挙げた私以外の人たちは基本的に普通の人より価値があり、人生経験も圧倒的に豊富です。ですが、うやまれる人というより、いじられキャラみたいな、あまりなりたくない括りにされる故、割と雑な扱いをされがちです。
つまり、知っての通りだと思いますが、人は外見、キャラクターだけで優劣を判断するということですね。残念ながら。
でも近年、海外ではこういった不当に差別を受けるひとをLGBTQという枠でくくっています。(LGBTはきっとご存知でしょう。その概念を拡張したものです。)
ですので、普通の世界に居続けたい人は彼らを差別するよりも擁護をしないと批難されてしまう可能性が高いので、気をつけましょう。
デメリット
基本的に、今上げたような、悪く目立つ人が普通に過ごすと、辛い人生を送ることになります。例えば、数人が同じミスをしても、責任はこういう人に行きやすいです。怒りやすいとか、そういう空気だった、たまたま目についた、といったような、明らかに不当で差別的な理由で私はいろいろ言われてきました。
そうすると、当然心が病みやすくなります。2chのひろゆきさんはメンタルが強いのでこういうのを真に受けないのでしょうが、真に受ける人は学校をやめたり、会社をやめたりと、コミュニティに関わるのを辞めるます。私もそういった理由で会社をやめました。なので、普通に生きれば、幸せに生きるのは難しいです。(まぁ、自分は幸せに生きることに固執していないのですけれども。)
メリット
とはいえ、メリットもあります。それは、普通の人より頭を使うようになります。これは、受験に強くなるという意味でなく、論理的思考力、本質を見抜く力がつくという話です。
嫌なことを毎度言われるのは辛いので、次は言われないよう、反省をします。この反省というのは重要です。というのも、普通の人は大人になってから反省する機会は少ないです。ミスがない、というより、責任を押し付けられる立場になったりするからです。人間、反省する機会が少ないと、間違ったことを平気で繰り返します。
また、世の中には本質的な物事を考えれず、感情的にしかしゃべることができない人が多いことを知らされます。昨日怒ったことと、今日怒った内容が矛盾している、と気づきます。
怒る人は大体が本質的なことを考えず、いかにマウントを取るかということに必死になります。そうすると、自然と嘘をつきはじめます。しかし、嘘を貫くのは難しいです。なので、結果的に怒るたびに違うことを言うので、「あぁ、この人はその場その場の考えでしゃべっているんだなぁ」と知ります。
場合によっては、怒っている最中にその矛盾をつき、相手が更に炎上したところから「証拠」を取得することもできます。(まだしたことないですよ。あしからず。)
何かを成し遂げることを目標に置くと、いいですよ
マイナーな人は普通に生きるのは難しいです。もし普通に行きたいのであれば、筋トレをしたり、整形をしたり等、見た目を変えるといいと思います。ちなみに、私がもしニートで差別を受ける身分だとしたら、多分刺青を入れると思います。どんなひょろい人でも、刺青があったら警戒します。
それよりも、マイナーな人は社会的にも価値がある可能性が高いですし、生物の進化に貢献しているので、ぜひ個性を捨てないで欲しいです。その個性を捨てないで生きれば、高確率で世の中に新しい風を巻き起こしてくれます。
そんなこんなで、生き残るためには、人生で何か成し遂げる目標を作るのをおすすめします。目標があれば、いろいろと言われても、ある程度踏ん張れることができます。そして、目標への努力で得た力はコミュニティを選ぶ余力もできるので、悩みが少なくなります。
道以外も歩けると気がつける人は、見える世界が違いますよ。
少子化問題というまやかし
今日は少子高齢化を問題だという主張について、少し疑問を投げかけてみます。
少子高齢化を騒ぐ理由
少子高齢化が日本の大きな課題としてよく挙げられます。
少子高齢化による5つの問題点と国民がすべき対策とは!? | さあ、本当の勉強を始めよう。
- 日本経済低迷
- 年金
- 生活の変化による弊害?
例えば、これらが問題らしいです。よく聞くのは年金の話ですね。
年金問題はベーシックインカムでどうにかなるらしいです
ベーシックインカムについて、2ch開設者のひろゆきさんが詳しく解説しています。
年金システムをそのままベーシックインカムにしてしまうというものです。
基本的に、日本という国では働いている"フリ"をした人がたくさんいます。
対して、ものすごく優秀な人が、沢山の人を養えるほど儲けを作ることができています。
そんなわけで、働いている"フリ"をした人が働かなくても、問題はありません。むしろ、フリをしている人が適職を見つけやすくなると思いますので、良い方向に向かうと思います。
ベーシックインカム案とは (ベーシックインカムアンとは) ニコニコ大百科 スマートフォン版!
西村博之氏「ベーシックインカムを実現するにはどうしたらいいか会議」メモ: ホームレスから脱却した男
少子化が経済の低迷という主張をしすぎない方が平和だと思う
少子化によって日本経済が低迷し、困るといいますが、就活しても就職できない人がいるのに、なぜ人数が必要なのでしょう?
商売の例をとって考えましょう。
ミスタードーナツはみなさんもご存知だと思います。ミスドは、実はドーナツの品切れがないようにするため、閉店時に必ず破棄するドーナツが出るくらいたくさん作るらしいです。逆に、余らなかったら儲けが減るらしいです。売上の方が材料費より圧倒的に高いんですね。
これは、ミスタードーナツという会社のために、やむなく多くのドーナツを破棄をしているわけです。
そんなわけで、供給量を需要よりも多くしたほうが儲かる場合があります。これを国という会社でやってるだけなんですね。
基本的に人を雇えば雇うほど物を大量に作れ、大量に売れば会社は儲けが出ます。なので、雇おうと思ったときに人が足りなくて雇えないと、儲けが少なくなります。だから、人材の枯渇がないよう、国は大量に人を用意、つまり子供を生むことを促すのです。そうして、必ず余りを用意するのです。
当たり前ですが、余ってる人は仕事がありません。強制的に無職になります。なりたくてなったわけでもないのです。そして、周囲は無職の人に対して罵詈雑言を浴びせます。無理やり就職しても、そこはブラック企業です。人が余っているんだから、人を使い捨てるブラック企業が成り立つわけです。
体力的にボロボロになら餓死、精神的にボロボロなら自殺です。
でも仕方ありません。お国のためですから。
ある意味、人を駒として扱う戦争と同じ発想な気がします。
生活の変化によって介護する人が〜
外国人入れたりロボット導入しまくれば良いと思います。
そもそも、子供を年寄りの介護のために産むということを主張するのがおかしいと思わないのでしょうか。
年寄りのために日本は存在するのでしょうか。
結局、これも個人を殺す、人を国の駒としてしか見ていない発想です。
民主主義だから駒になるし、たくさん死ぬ
割と当たり前のように言わされてしまうのは、民主主義が大きく関わっているのだとおもいます。
学校では教えてくれないかもしれませんが、民主主義は完璧ではありません。基本的に個人を殺す思想です。しかも、集団やコミュニティを維持するために、本来さほど関係のなかった人を関係者にして巻き込んでしまうのです。
例えば、戦国時代に戦っていたのは、農民ではありません。武士です。なぜなら、農民は武将の関係者ではなかったからです。民主主義だからこそ、すべての国民が強制的に関係者となり、戦争で大量殺戮が必要になるのです。
そんなわけで、国のことを考えすぎず、もう少し個人を大切にしたほうが、幸せに生きられるとおもます。
かつての戦争で、降伏したことは間違いだったのでしょうか。あのまま無理して戦い続けた方が良かったと思う人はどれくらいいるのでしょうか。
この先、日本が少子化で借金まみれだからアメリカ、中国の属国になるとしても、あなたが不幸になるとは限りません。国が勝手に困るだけです。むしろ、中国人のかわいい子に会えることや、アメリカンドリームを叶えられるかもしれないという状況の方が楽しそうです。笑
国のために、人生を捧げることの無意味さは日本人は十分に知っているはずなので、少子化なんていうまやかしに動じる必要はないと思います。
100年規模で考えれば、自分たちの子孫を苦しめないため、自給自足できるようにするためにむしろ人口を減らすべきでしょう。
想像力
今日は想像について、思うことです。
思わず、つい馬鹿だと思ってしまう場面
馬鹿と呼ばれてしまう原因は様々ですが、1つに想像をしないということがあります。
例を出しましょう。ザルのかごを棒で立てておき、その下の地面に餌をばらまいて、鳥を捕まえる、といったトラップは何らかの形で見たことあると思います。
見るからに怪しいのですが、そこにある餌にしか目が行かない鳥はそのトラップに引っ掛かり、人間に食べられてしまいます。
こういうとき、捕まった鳥は想像ができない馬鹿な生き物だなぁと、人は思うわけです。
人が賢いのは、想像力があるからでしょう
人がここまで繁栄できたのは、道具を使ったことはもちろんですが、頭を使ったというのももちろんのことです。
例えば、戦国時代でいうならば、秀吉のわらじを胸で温める話や、信長が長篠の戦いで、鉄砲隊をうまく使うことで武田の最強の騎馬隊を撃退したことなど、生存競争において賢い人が生き残った例は多々あります。
これらの人々は、想像力が豊富であったのでしょう。わらじを温めるのが無礼なのでなく、尻に敷くことが無礼であるということを想像したり、間髪なく鉄砲を撃つようにするにはどうすればいいか、こういったことを想像したから勝てたのです。
優しい人になるには、想像力が不可欠
よく、優しくて頭のいい人と結婚したい、という想いを持った人がいますが、優しい人という時点で高確率で頭がいい人です。(ただし、ここでいう頭の良さは学歴ではありません)
なぜなら、優しさ、つまり人の気持ちを考えるというのもまた、想像力が必要だからです。
相手が喜ぶために、相手の性格に合わせてプレゼントを用意したり、そもそも用意するのでなく一緒に買いに行ったりすることが人によっては良かったり、おっちょこちょいなとこを想像し、補ってくれたりといったようなことです。
逆に、この想像が欠けた優しさは、迷惑、または余計なお世話となることが多いです。
子供が泥団子を渡してくるのは純粋さに感化されるので良いのですが、大人になってもそれを続けられたらとんでもなく困ります。
人生相談は想像力ある人にすべき
よく、人生相談は誰かから共感を得たいからするだけだ、という意見を言う人がいますが、私はそうは思いません。
私が相談するときは、自分の推理に漏れがないか、他にいい案があるのだろうか、ということを確認するために聞いてます。
そうなると、当然ですが、聞き手側は想像力が必要となります。前提条件から論理的に考えられたり、経験が豊富で、それをもとにした知見など、そういったことから推測する想像力です。
なので、なんでも話せる相手というのはそれはそれで良いのですが、想像力がなければ、ためにならない確率が高く、話を整理するぐらいの存在程度にしかならないです。
想像力を養うには、勉強や実験が必要
どうしたら想像力がつくのかと言えば、例えば将棋が良い例だと思います。まさに将棋は想像力の戦いです。棋士は強くなるために、本を読んで知識を増やしたり、実戦経験を増やすことによって経験値を増やしたり、試行錯誤の実験をすることなどをするでしょう。
これらは生きるための想像力も同じように鍛えることができます。ただし、本を読むことは絶対条件ではありません。むしろ、本を読むことしかしないと、自分の頭で考える能力が衰え、前例のないことに対して弱くなること、個性的でなくなります。それよりも実戦経験を積むことや、実験をすることが重要です。
想像力がある人たち
最後に、想像力がある人、あるいは必要とする職業の一例を紹介します。
- 画家
絶対に必要です。影の付き方、人間の骨格、遠近感、まずはこういったことを想像できるようになってからでないと良い絵はかけません。例えイラスト程度であろうと、基礎をやらねば壁にぶち当たります。
- 音楽家(クラシック寄り)
基本的に芸術家は想像力が必要不可欠です。ポップスはフィーリングでやれるのかもしれませんので想像力はいりませんが、クラシックは洗練されていないただの直感でやるわけにはいきません。
一つ一つの音の意味を考え、想像できなくてはいけません。
凄腕のプログラマーは想像力が豊かです。いわゆるアブダクションという、名探偵コナンのごとくバグの原因を推理できます。ブチャラティでもOK。(この味は嘘をついている味だ!)
- 起業家
前例がないから起業するのです。それには想像力が不可欠でしょう。
想像することをめんどくさがると、人間の価値が下がるので、可能な限り想像をすることをおすすめします。
うさぎとかめ
カメ
悪口でカメと言われると傷ついたと感じる人は多いかもしれませんが、カメ自体を嫌いな人は世の中においては少数派でしょう。私は昔からカメが大好きで、幼稚園の頃から、カメを2匹飼っていました。一匹はまだ元気にしてますが、もう一匹は卵が卵管に詰まって亡くなってしまいました…
そんなカメを題材にした昔話は日本にも海外にもたくさんあります。今日はその中のイソップ童話の「うさぎとかめ」から学べることについてです。
ダサいけど勝つのはカメ!
話の内容は知ってのとおり、のろまなカメvs.イケイケリア充うさぎとのかけっこの話です。
(ちなみにディズニーのアニメはおすすめです。 https://kanehisa-animation.blogspot.jp/2018/02/the-tortoise-and-hare.html?m=1)
ちなみにカメがズルして、ゴール間近に別のカメが待機し、途中で入れ替わるっていうのもあるらしいです。
いずれにしろ、カメに特殊能力や秀でた能力があるわけでなく、勝負に勝つというところは共通点です。
止まると死ぬ
物理的でも精神的でも、止まって動くを繰り返すのはしんどいです。
例えば、物理的な例はマラソン。ダッシュを繰り返すシャトルランをやるよりも、最後まで走り抜けれる遅いペースで行く方がタイムが伸びます。
精神的な例は、勉強の合間の休憩。ゲームなんてしたら最後、ほとんどの人が勉強の再開を予定通りにできません。こもり続けて勉強するほうが絶対いいです。
他にも、家に帰ってゆっくりしてからだと風呂に入るのもめんどくさくなる私ですが、家についてすぐに風呂に入るのは億劫でないです。
というわけで、何かを止める、という行為は可能な限り避けるべきです。
どこから見てもカメはカメ
私はENTP型で、そこそこ珍しい型らしいです。こういうことを知ると、つい自分は何かしなくても人より一部が優れているうさぎだと思いこんでしまいがちな私です。
でも、これはまやかしです。というのも、その程度のものでお金を稼げる、楽に生きていけると思わないからです。
つまり、うさぎではなく、カメの中で速い程度のカメであることに変わりないのです。
そして、そう思うからこそ、努力しようと何かしらの行動をすることができるものです。
そして伝説へ…
最後に1つ、これらを役立てる重要なこととして、ゴールを設定する、ということです。
当たり前ですが、いくらカメで走り続けたとしても、ゴールを知らなくてはとても無駄な回り道、というか迷子になっている可能性が高いです。
カメはがむしゃらに努力をしてたわけではありません。カメなりの最短ルートでゴールに向かったわけです。
西洋の技術はとてもよく研究されています。
例えばバイオリンです。バイオリンの師から教わることは、ほぼ100%ですが、「可能な限り楽をしろ」、と言われます。
少し練習してできないなら、練習方法を疑い、頭の中で意識を変えるだけでできるならそれをする。ゴールに向かうこと以外の、忍耐とかそういうのは不必要なんです。
ところが、これが日本のお家芸となると、「いいからやれ」となってしまいます。
意味を知らなくてもよいとし、無意味な伝統を貫き、新しきを避ける。そういうなかでやったことは、私はためになったと実感したものは少ないです。これはゴールのない、無駄な努力です。「きっとなにかに繋がる」と信じている、宗教に過ぎません。
なにをできるようになりたいか、逆算してこそ、勝算があります。がむしゃらなことは、ゴールを決めることとしてはありかもしれませんが、ゴールに近づいてはいないです。
私自身の一つの目標が自分自身を保つ、あるいは確立するというものです。だから、辛いことがあっても、それがゴールに繋がれると感じれば行動に起こします。
(どうでもいいですが、生き物としては、どちらもかわいいよね)
かわいいとかっこいいのその先
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かわいいは正義
何をするにしても、可能であればかわいい人の方が感情的にいいものです。例えば、褒められるにしても怒られるにしても、かわいい子から言われる方ががんばれます。その逆だと、ストレスがたまります。
ただし、追求したその先は、異性かどうかで芸術的な方向へいくか、堕落した方向へいくか、と分かれると思っています。
きゃりーぱみゅぱみゅと仮面ライダー
一部の女の子からしたら、きゃりーぱみゅぱみゅの可愛さには憧れを感じ、そしてきゃりー自身も女の子から求められる可愛さの方向を極め、洗練しています。
男の子からしたら、仮面ライダー、またはガンダムなどはかっこいい存在として、純粋に憧れます。そのため、仮面ライダー、ガンダム共にカッコよさについて追求し、昔よりも遥かにデザインはその方向に洗練されてきました。
このため、同性が思うかわいい、かっこいいは基本的に一定の方向を向き続けるため、芸術的になりやすいです。
異性はかわいい、かっこいいだけでは物足りない
一方、異性が思うかわいい、かっこいいは芸術を追求するほど、そこまで求められていません。
例えば、アイドル、萌キャラを選ぶとしましょう。
多分、殆どの人が、最初に顔、髪、体型など、「かわいい」に相当する要素を見るでしょう。
次に見るとしたら何を見ますか?
もちろん、おっぱいですよね(笑)
性格を気にする人もいるでしょう。
でも、この次の条件ということが、そもそもブレています。
例えば、きゃりーぱみゅぱみゅのおっぱいを気にする女の子はどれほどいるのでしょうか。
仮に超巨乳だったとして、それがあのかわいいという方向性につながるのでしょうか。
生活の妄想
異性の思う、かわいい、かっこいいの要素以外のことを意識するのは、結婚後の生活を無意識的に妄想してしまうからだと思います。
それは普段の食事であったり、デートであったり、夜の営みであったり、いろいろです。そのために、たとえ自分が結婚できる相手でなくても、おっぱいの大きさ、性格、趣味、日本人であることなど、いろいろなステータスを異性に求めます。
でも、基本的に芸術はひとつの方向性に向かっているものでなければ、芸術足りえていないことが多いものです。
かつ、感情はすぐにうつろいでしまうものであり、芸術は何十年と生き残りますが、こうしたアイドル、萌えキャラ等への想いは長くても10年いくかいかないか、くらいなものです。その前に別のアイドル、萌えキャラを見つけてしまうものです。
そういう点を踏まえると、異性から求められる行為を極めようとするのは消費期限がとても早いので、そのために人生を使い過ぎない方が得だと思います。
自分の意志を貫くか、本能の赴くままに堕落するか、どちらがいいかわかりませんが、どちらかを自覚して選ぶことを影響ある20代のうちにしないと、その先の人生がぶれて後悔することは間違いないでしょう。
「痛い」行為
痛いニュース
地獄のミサワというイラストがインターネット上で有名なのは言わずもがなといったところだと思います。
また、意識高い系という言葉や、ポエマー、ワナビーなど、若い人の間ではこういった言葉が結構使われ、いわゆる「痛い」人として吊るし上げられてしまいます。
痛い人というのは、基本的に嫌われる存在です。その行為が他人に得がなかったり、不愉快と感じるものが多いのです。
なぜするん?
ググると、面白いブログを見つけました。
https://sool.co.jp/media/archives/712
要約すると、
- 客観的に物事を見れる能力が欠けている
- 反省できない人で、一回で終わらずこじらせている
- そもそも気づいていない
といったところです。
自分の行為を評価、相談にのってくれる友達がいない、あるいは経験値が低いのが原因の1つなんでしょうかね。
黒歴史の怖さに負けたくない
とはいえ、私は現在進行形で痛い人だと思います。
例えば、今でもあったりするのが、トンチンカンな質問をしてしまうことです。
一般的に、質問タイムで手を上げる人は小数です。質の良い質問ができないと自信がないからです。
でも、話を聞いてもわからないものは、コミュニケーションを継続しなければわからないです。
だから、質の良い悪い、トンチンカンな質問をする痛い人になる、ということを恐れず、私は素直に聞きます。
それが、自分の人生に得があるからです。
(ただし、話を聞いていない故のトンチンカンな質問は避けます。)
他人に迷惑をかける、というところは非常に申し訳ない、と思うのですが、個人的にこれは日本人が他人を気にし過ぎなんだと思います。というより、人間が生きる中で、他人に迷惑をかけないで生きるというのはほぼ不可能だと思います。
例えば、迷惑をかけるからと言って質問しなかった場合、本人はその部分を理解してないことになります。そして、それを誰かに報告しなくてはいけないといったとき、その部分を理解してないので、テキトーな報告になり、結果的にめちゃくちゃ他人に迷惑をかけるわけです。
むしろ、その場での少しの痛い思いが、誰かの役に立ったりします。(これを俗に勇者、またの名を人柱という)
そもそも、痛い人になりたくないというのは他人に迷惑をかけたくない心理が働くわけでなく、自分がイジメられたくない、臆病さが勝っている状態が多いと思います。
そんなときはどっかの哲学者が言ってましたが、宇宙規模で考えろ、とのことです。
宇宙規模で考えれば、ほんの小さなコミュニティでハブられることの無意味さや、些細な迷惑で人類滅亡への可能性を考えれば、大したことありせん。
冒頭のワナビーだのポエマーだの、こういった行為をするのは勇気があると思います。こうした失敗をした人が、反省して、次のステージに進んでいる可能性のほうが高いです。
(もちろん、勇気あっても反省がなければ、それは無意味ですが。)
逆に、行動を起こさなければ、次に進むための材料すら得ることができません。一生懸命目立たないように自分を都合よくカモフラージュしようとしても、それは自分を殺す、疲れる人生が永遠に待ち受けているだけです。
というわけで、地獄のミサワほどの大ダメージを続けるとこまでではないですが、私は少しの痛みなら耐えて生きています。
作品と子供
この作品のメッセージは…
映画監督、アニメ監督、作曲家、美術家、こういった人たちはよく、「この作品は〇〇というメッセージを込めて作った」というのがあります。
私はあまり気にしない人ですが、気にする人は気にします。作者がそういうんだからそれが正解だ、と信じ、そしてそれ以外の意見を不正解としてしまう傾向があります。
また、映画、アニメの場合は原作があるものについては、映画では語られていなかった心理描写を正解としてしまう人も見かけます。
作品を作る行為には、不確定要素がかなり多い
私は子供の教育と一緒だと思っています。
こういう性格に育てたい、といろいろ試行錯誤しても、それなりにはそういう方向に育ってくれますが、それ以外の要素も強く持ってしまいます。
例えば、「このドラマは一般人の人生に役立つものとして作った」というふうに脚本を作っても、そこにジャニーズのようなイケメンやAKBのアイドルばかりを起用すれば、別の要素がより際立ってしまい、ぶれてしまいます。
「メディアはメッセージである」
マーシャル・マクルーハンという人曰く、あらゆるメディア(ここではメディア=作品と思ってください)は、無色透明で自由自在に人間があやるれるものでなく、むしろ人間の方がメディアに操られている、とのことです。
例えば、ツイッターをやるとどことなく愚痴を言いたくなったり、2ch(5ch)に書き込むときは博識ぶったように書き込んだり、インスタ、フェイスブックでは幸せ感を報告しなくてはいけないように迫られます。
別にフェイスブックでつぶやくことも、ツイッターでリア充報告することもシステム的に禁じられているわけでないです。
「空気」に負け、人は操られているのです。
このメッセージというのはもちろん、メディアの作者がそう仕向けているものもありますが、そうでない場合もあります。
(例えば、ツイッターでの愚痴のしやすさはおそらく製作者本人の意志とは関係ないものだと思われます。)
そういった視点からも、作品のメッセージ性、意味等は作者の意志に反する場合もあることは多々あります。
この方向性をもたせた、と自負しても、客観的にそういう方向を持っているかどうかは別なのです。
芸術とは、ある方向に一貫し、最適化されたもの
ブレがなく、ある方向へ一貫して極めているものが芸術です。
対して、これが流行りだからこういう要素を入れた、っていう作品は大衆娯楽です。
そうなると、大衆娯楽でメッセージを語る、というのは成立しない確率がかなり高いです。
また、芸術の方も作者がわざわざ語らなくても、良い作品は一定の方向に対してのメッセージが強くにじみ出ています。なので、率直に感じたことを、あとから作者の発言で修正しすぎないよう、私は大切にしています。
作り手である時は、作品を大切に育てないと思わぬ方向に進んでしまうので、愛情をもって接してあげています。