作品と子供

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この作品のメッセージは…

映画監督、アニメ監督、作曲家、美術家、こういった人たちはよく、「この作品は〇〇というメッセージを込めて作った」というのがあります。

私はあまり気にしない人ですが、気にする人は気にします。作者がそういうんだからそれが正解だ、と信じ、そしてそれ以外の意見を不正解としてしまう傾向があります。

また、映画、アニメの場合は原作があるものについては、映画では語られていなかった心理描写を正解としてしまう人も見かけます。

 

作品を作る行為には、不確定要素がかなり多い

私は子供の教育と一緒だと思っています。

こういう性格に育てたい、といろいろ試行錯誤しても、それなりにはそういう方向に育ってくれますが、それ以外の要素も強く持ってしまいます。

例えば、「このドラマは一般人の人生に役立つものとして作った」というふうに脚本を作っても、そこにジャニーズのようなイケメンやAKBのアイドルばかりを起用すれば、別の要素がより際立ってしまい、ぶれてしまいます。

 

「メディアはメッセージである」

マーシャル・マクルーハンという人曰く、あらゆるメディア(ここではメディア=作品と思ってください)は、無色透明で自由自在に人間があやるれるものでなく、むしろ人間の方がメディアに操られている、とのことです。

 例えば、ツイッターをやるとどことなく愚痴を言いたくなったり、2ch(5ch)に書き込むときは博識ぶったように書き込んだり、インスタ、フェイスブックでは幸せ感を報告しなくてはいけないように迫られます。

別にフェイスブックでつぶやくことも、ツイッターリア充報告することもシステム的に禁じられているわけでないです。

「空気」に負け、人は操られているのです。

 

このメッセージというのはもちろん、メディアの作者がそう仕向けているものもありますが、そうでない場合もあります。

(例えば、ツイッターでの愚痴のしやすさはおそらく製作者本人の意志とは関係ないものだと思われます。)

 

そういった視点からも、作品のメッセージ性、意味等は作者の意志に反する場合もあることは多々あります。

この方向性をもたせた、と自負しても、客観的にそういう方向を持っているかどうかは別なのです。

 

芸術とは、ある方向に一貫し、最適化されたもの

ブレがなく、ある方向へ一貫して極めているものが芸術です。

対して、これが流行りだからこういう要素を入れた、っていう作品は大衆娯楽です。

そうなると、大衆娯楽でメッセージを語る、というのは成立しない確率がかなり高いです。

 

また、芸術の方も作者がわざわざ語らなくても、良い作品は一定の方向に対してのメッセージが強くにじみ出ています。なので、率直に感じたことを、あとから作者の発言で修正しすぎないよう、私は大切にしています。

作り手である時は、作品を大切に育てないと思わぬ方向に進んでしまうので、愛情をもって接してあげています。

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